1995年  中国での日々



1995年2月〜9月まで、ODAの一環として外務省からの派遣で
中国に半年間単身赴任をすることになりました。

それまで外国旅行へはあちこち行ったことはありますが
半年間もそこで暮らすという経験は初めてでした。
赴任先は中国内陸部の東北地方の都市長春にある東北師範大学。
ここで、日本の大学院に留学予定の博士班の学生たち80人に日本語を教えました。
13億の人口の上澄みとも言うべきすばらしい学生たちと、

日常生活で出会う中国らしいずっこけとのものすごいギャップ。
とても書かずにはいられない面白い日々をすごしました。
沿岸部にある都市は年々大変なスピードで発展していますが、ここの発展は

内陸部ということで比較的緩やかです。

20年前のことなので、

その辺のところを頭の隅に入れて読んでいただければと思います。

当時、友人達に送った便りに加筆、修正してUPしていきたいと思っています。


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長春からの第1報

3月、4月 
出発前

ちょうどこの年1995年1月17日早朝、阪神淡路大震災が起こりました。
中国出発の約一ヶ月前です。震度6でしたが、我が家の倒壊はまぬかれました。
東京での研修を経て、水のない、ガスのない大変な何週間かをすごし、初めての中国へ。



北京

 2月24日に東京勢5人と山のような荷物とともに成田を発ち、摂氏12度という例年にないほどの暖かさの北京に到着。

北京の空港にはこれから赴任する東北師範大学から日本語担当のM先生と国家教育委員会の人が迎えに来てくれました。

マイクロバスで楊の木の並木に縁取られた高速道路を一路市内へ。その夜は天安門に程近い民族飯店に泊まりました。

初めての中国です。

 翌日の午前中、天安門広場とワンフーチンなどを巡り、古い中国らしい趣のある建物が立ち並ぶ細い道を散歩した先はレストラン、北京での昼食は国家教育委員会の招待で、四川料理を賞味。

 20種類以上のコースで,主催者の中に長年日本にいた人が何人かいるだけあって日本人が好む食材が選ばれており、
 珍しく、またおいしいものばかりでした。

 一皿だけすっぽんの姿蒸し、これはちょっといけませんでした。内臓も何も入ったそのままでしたから。

 その他は一同大満足です。中国で本当においしいものを食べたいときは中国の人と一緒に行かないと効率の悪いことになります。メニューを読み取るのが大変です。

午後は故宮を見学。故宮の何層にも連なる山吹色の屋根の美しさはすばらしいものです。屋根の後方の丘の上に立てられたあずま屋や寺院が借景になり、一層その美しさが際立ちます。梅原龍三郎が好んで描いた理由がわかります。ここ故宮博物館の中に展示してある美術品などは、第二次大戦後、中国の国民党がほとんどめぼしいものをさらって台湾へ逃げてしまったので、たいしたものは残っていません。運びにくい大時計などのコレクションは悲しいほどたくさんありました。至宝というものを見たければ台湾の故宮博物館にいくしかありません。

サンザシの実を長い串に刺して売っている人々、路地を走る子供たち、95年ごろの北京にはまだ、古い中国らしい風景があちこちに残っていました。夕食は北京から長春まで私たちの通訳とお世話をしてくださるM先生に頼んで中国人がよく行くという小さな食堂へ連れていってもらいました。M先生は知的でとても美しい魅力的な女性です。食堂では私たちの期待通り、本当においしい中国家庭料理を食べることができました。その上安い。7人でもうこれ以上食べられないほど食べてたったの54元。日本円で648 円(1元12円)。
 前の晩遅く着いたのでとまったホテル(民族飯店)で焼きそばと焼き飯とスープと野菜炒めを食べて8人で800 元(9600円) 取られたのとは天と地の違いです。しかし昨晩同じホテルのレストランには、さまざまの料理を取って歓談していた中国人のグループがいくつもありました。大学の先生の給料が月350 元(4200円)ぐらいだそうです。
 またちょっと寄ってみた北京八百半デパート(今は撤退していてありません)ではたいていのものが日本とほぼ同じ値段でしたが、中国人がたくさん買物をしていました。これは首都北京だからでしょうね。


長春へ

 翌朝6時、窓を開けると煤煙で煙った鈍い鉛色の空に巨大な朝日がオレンジ色に輝いています。日本とまったく違った風景、空気、そのにおい。

 早朝の出発。通勤の自転車の群れをうまくかわしながらマイクロバスは天安門の前を通り高層ビルの間をぬって、高速道路に入り一路北京空港へ向かいました。北京はこの5ヵ月雨がないそうです。

 北京から目的地の東北の地方都市長春まで飛行機で約1時間半かかります。

 私たちが乗るのは小型ジェット機。乗ってみて驚きました。座席と座席の間がこれ以上詰めると人が座れないぎりぎりのところまで狭くなっていて(中国仕様なのか)、頭上の荷物入れはもちろん足元にも、ひざの上にも、通路にまで目一杯荷物が置かれています。それでも軽食のサービスはありました。ローカルの飛行機にはそれなりの風情があります。

 快晴の空の中、飛行機は快調に飛び続けました。

その日長春は摂氏零度。(例年この時期はマイナス15度から20度ぐらいだそうです。)昼ごろのぽかぽかした陽気はあんなに寒さを覚悟してきた私たちには拍子抜けするほどでした。飛行機のタラップを下りると、そこには総勢50人を越える軍楽隊と軍人たちと新聞記者が花束とカメラを構えて待っていました。私たちは一瞬私たちを迎える人たちかと緊張しましたが、地上に着くと同時に早くあっちに行けと追い払われました。しばらく遠巻きにしてみていると一番最後に金色の文字を縫い取りにしたビロードの真っ赤なたすきを掛けた立派な軍人が何人も音楽に迎えられて下りて来ました。テレビで見る中国そのものですね。なんだか変に感動してしまいました。

私たちが空港の到着ロビーを出ると○○大学の先生たちがたくさんむかえにきてくださり、大量の携行品や私たちの荷物を大学のマイクロバスに乗せて、一路、外国人専門家招待所に向かいました。
 空港から市内までの道にはろばの引く荷馬車あり露店で商う人ありの、とても中国らしい風景が続きます。郊外から中心部に近づくにつれ、新しいビルが次々に建てられ、今年より来年、来年より再来年と、新しい中国のこれからが目に見えるようです。


3月1日、開校式

 階段教室の教壇に大学学長はじめ指導に当たる教官がずらりと並び、80人の博士班の学生との初めての対面。彼らは25才〜35才までの新進気鋭の学者たち、半分は在学博士、半分は進学博士です。全員が日本に留学し東大、京大、九大その他の国立大学の博士課程で研究を続ける予定になっています。在学博士は現在中国の大学の博士コースに席を置いているもので、日本に留学して研究を進め、帰国後中国の大学に戻り博士号を取る。進学博士は修士終了後中国の大学で教えている教員で、日本の国立大学の博士課程に進学し、これから日本で博士号を取るもの。ほとんどが理科系学生です。彼らは中国全土から集まり、ここで日本留学のために前年の10月から日本語予備教育を受けているのです。

これまでは中国人の指導教官による授業だけでしたが、明日から私たち日本人がそれに加わります。これからの半年で、日本語の総仕上げをするわけです。明るい活力にあふれた学生たちの笑顔に私たちは元気付けられました。その後クラス分け試験をし、3月2日から授業開始。朝7時半から、夕方4時半まで授業を受けます。一日八時間の授業です。11時半から1時半までは昼休み。(後でも述べますが、彼らは15分で食事を終え、1時15分までたっぷり昼寝をする。だから午後の授業も元気いっぱい。これはとてもいい習慣です。) 彼らは大学の先生たちだけあって非常に飲み込みが早く授業は快調に進みます。私たちはまず全体計画を立て、必要な作業(試験問題の作成、LLの教材、プリント類の整備)を行っていきます。く。コピー機にはソーターもなく、紙は日本から持参したものの、トナーの数がどうしても足りなくなるので、多量の印刷は輪転機で。授業の準備をしながらなので殺人的な忙しさです。

 

新しい生活

黄砂のせいでしょうか。半年ぶりに日本人が訪れた教官室はきれいに片付いていたものの埃が厚く溜まり、掃除をするのが一苦労でした。その埃と教室の中国製のチョークの粉(折れやすい、粉がすごい)のせいで教員全員が喉をやられ、その上なれない寒さで、次々と風邪を引き、せきと熱で4人がふらふら、もう一人はひどい下痢をし、それでも5クラスで、6人の先生しかいないので、休むわけには行きません。皆よく頑張ったと思います。わたしだけは軽い症状ですぐ直りましたが、はじめの二週間はどの先生にとっても大変でした。
 大学の入り口には厚いキルティングのカーテンがかかっています。
 はじめは何かと思いましたが、これで外の寒さを防いでいるのです。けれども建物の中は春のような暖かさで、快適でした。
 それから1ヵ月、慣れたとはいえ、マイナス15℃の町は煤煙のにおいでどんより曇り、ゴミはいたるところにあり、冬枯れの木の枝にはナイロン袋や、紐が引っかかっています。内陸性の厳しい気候がそうさせるのでしょうが、とにかくどこを歩いてもほこりっぽい。また街全体が昭和30年代の日本を思い起こさせる雰囲気です。また戦前の満州に多くの日本人が移り住んだという事実を思い出して、そのころに思いを馳せました。あのなにもかも凍ってしまったような大陸の冬の光景は忘れられません。

 

中国(長春)で驚いたこと 1

 
 私たちが住む外国人専門家招待所は昨年の12月に新しい建物が完成するはずでしたが、当時はまだ3分の1しかできておらず、私たちのうち2人は旧宿舎(10年ぐらい前に建てられた建物です)、4人は作りかけの建物の一部である新しい宿舎に分かれて暮らしました。旧宿舎は2DKで、バストイレ付き。広いけれども古くて暗い。
(今年赴任している人の話では2002年には郊外に移転して、現在は買い物は不便ですが、、ホテルのスィートルームにすんでいるような快適な住環境らしいです。彼は1988年の天安門事件のときにも半年行ってますので、そのときと今とは、50年ぐらいの差があると感じるほどだそうです。)

水はミルクティーのように濁っています。ですから飲み水は必ず沸騰させます。

 沸騰させたお湯は魔法瓶に入れておいて置くのですが、何時間か立つと魔法瓶の底に茶色の砂と泥状のものがたまります。 このお湯で入れると煎茶も上等の紅茶もとてもまずいですが、コーヒーは問題なく飲めますし、ジャスミン茶やその他の中国茶はOKです。
はじめは沸騰してすぐの湯を使っていたのですが、底にたまったものを見てからは沸かしてすぐに飲むのはやめました。

お風呂のお湯はいつも茶色です。入った後流しますが、底にたまった砂というか、泥っぽいものに字を書くことすらできました。その水と飲み水が同じなんて、日本では考えられませんよね。同僚は浴槽の底に書いた字と一緒に記念撮影をしました。原因は屋根の上の貯水槽が古いからだということでしたが、こういう状態のままで、何年も過ごしているんですね。(今は建物もすっかり新しくなって、もちろん貯水槽も、ですから水はかなり透明だそうです。)



中国(長春)で驚いたこと 2
  
 私が住んだ新しい臨時の宿舎は客用に作られたホテル形式の部屋で、ツインベッドがおいてあり、12畳ぐらいの広さです。シャワーとトイレは共同。台所はありません。
 
中国の不思議。
 新しい建物であるはずなのに、物入れの扉があけるとすべて斜めに傾きます。蝶つがいがガタガタ、でも閉めるときちんとしてみえます。
アルミサッシの窓も少しゆがんでいて決して開かない窓もあります。洗面所で顔を洗って水が床にたまっても、ほとんどの場所では排水溝に集まりません。
これは何度もいいますが、できたばかりの近代的に見える建物の話です。
 8月に招待所の建物がすべて完成するのですが、そのときにもまた驚愕するようなことがたくさんありました。(これは2003年も似たような事が多いようですが、)
 
それは後に述べます。
 シャワー室も五十歩百歩です。トイレは紙を流すと詰まるので便器の横に大きな紙入れがおいてあります。
それなのに食堂の前と宴会室の前のトイレの中にはエビのからや豚肉の骨が時々浮いています。でもトイレは毎日服務員が掃除するので水浸しですが清潔です。


中国(長春)で驚いたこと 3

トイレと言えば、わたしはホテルと教官室のトイレとと招待所以外での経験がそれまでありませんでした。そこにはドアもあり、外国人仕様になっていたのです。

たいていのデパート(1995年)や、外の食堂のトイレには、ドアがありませんからちょっと勇気が要ります。一度挑戦してみようと思ったのですが、入ろうとして中の和式のトイレの女性と目があってからはちょっと遠慮しています。(これは当時の東北地方の話、浙江省や、上海、北京ではドアがありました)。中国ではドアに向かって用を足すんですね。これは結構安心感があっていいと思います。かぎがかかるドアがあれば、問題ないんでしょうけど。日本は逆ですよね。
日本に帰ってからしばらくはなんとなく後ろが不安だったのを思い出します。

大学構内の学生トイレの初体験は驚くべきものでした。どの便器でも水が流されていない(私は女性のトイレを見たわけですが、男性用も似たり寄ったりだったそうです。)流されているべきものがしっかり残っている。次に使う人が流すのだということを聞いて驚愕しました。だから、日本にある日本語学校のトイレも4月ごろはたまに同じ状態だったわけです。

ここで学んでいるのは最高学府を出て、さらに上の教育を受けている人たちばかりのはずなんですが。本当に不思議です。

日本もトイレ事情が悪かった時代は臭かったし、汚かったですが、ちょっと、汚さのありようが違うみたいです。歴史的にはどうだったんでしょうね。


長春の街

長春では北京と違って、街を歩いていても人々はのんびりしていますし、温かい感じもします。中国側の先生方も外国人招待所の服務員、門衛の人達も大変明るく親切で、気持ちよく過ごしています。先週から少し余裕ができて、大学の日本語科の学生の案内で、土曜日にデパートへ行きました。到着後一週間目の土曜日にも中国人の先生方の案内で長春の観光とデパート巡りをしたのですが皆疲れ果てていて、印象がとても薄かったのです。
 
今回はゆっくり見て回れました。長春では新しいデパートが次々にできていて、とても活気があります。国産の電気製品も豊富で、テレビゲームもビデオもウォークマンもあり日本と変わらない感じです。ただし、不良品が三分の一。実は教員全員のために、短波ラジオを買おうとしたんです。5つください。といって、出してくれたのに、なかなか包もうとしないので「早くして」といったら、店員がよく調べろというんです。このラジオのメーカーは、学生に聞いて今中国では一番いいメーカーだと聞いていたので、どう意味かと思って、スイッチを入れてみると、5つのうち3つは音が出ない、そのうち1つは、よく見ると電池を入れるところの、らせん状の受けバネが同じ向きについているんです。ですから5分の3が不良品だったわけです。でも店員はあやまる風もなく当然のように新しい3つを出しこれも調べろというんです。そちらはみんな合格でしたが、日本とはまったく逆の発想で、「おお、これが音に聞く中国流なのか」と、感じ入りました。
デパートですから、店員は責任を持って客に商品を点検させたわけです。
これが露店ならまた違うと思いますが、露店ならこちらも、徹底的に調べたと思います。
皿の類もそうです。日本なら店員がきちんと確認していいものしか出しませんが、皿も徹底的の点検します。不良品の歩留まりはラジオと同じ程度です。

日常の生活用品は日本製がかなりそろっていて、全く不自由はありません。
天安門事件のときに行った先生は、石鹸から歯ブラシまで、日本から持っていったそうですが、それと比べれば天地の差です。香港ブランドの店もたくさんありますから、衣類でもなんでもよく捜せば、気に入ったものが見つかりそうです。遅れているはずの長春でもこの便利さなのですから、中国の経済開放のスピードには驚くほかありません。 

 昨年、おととし長春に来た先生の話とはずいぶん違ってきています。

 宿舎の近くにも大きな市場があって、たいていのものはそろいます。 
 市場は2種類あって、1つは個人商店の集まり(このころは個人商店も認められるようになりました)で、品物も豊富で、新鮮。サービスもよいのですが、
 1つは国営市場で暗く、閑古鳥がないています。あれをちょっと見せてくださいというと、チラッと面倒くさそうにこちらを見て、長い竹の棒で引っ掛けて客の目の前に放り投げてくれます。次のを見せてくれるように頼もうと思っても、あんまり面倒くさそうなのでこちらの気持ちが萎えてしまうほどです。
 お金の扱い方もそうです。当時は友諠商店(今は便利なデパートが増えて影が薄いですが、当時は高いけれども一番いい品がそろっているという印象でした)という外国人向けの国営デパートがありました。ここは国営にしてはサービスがまだいいほうのようですが、お釣りは必ず目の前に投げてよこされます。実にうまく客の前に転がってきます。お札はくしゃくしゃに丸めたまま。国営と、個人の商店とのあまりの違いに社会主義の行き着く先が見えたような気がしました。ソ連もそうでしたよね。「朝日新聞の記者の見たソ連?」ちょっと題はうろ覚えですが、似たような話が山ほどありますね。

1995年はケ小平による、「富める者からまず金持ちに」という経済開放政策が始まったばかりのころです。

沿岸部と、内陸部の格差は2003年ほど広がっていず、のんびりムードの時代でした。土日と夕方には果物、香辛料、野菜、金物、食べ物の屋台など、露天の市が立ち、見て歩いているだけでも飽きません。A型肝炎の心配があるので、私たちは買い食いを禁止されていましたが。出発前私たちはA型肝炎の免疫があるかどうか調べたのですが、なんと焼け跡世代、昭和10年代に生まれた先生はA型肝炎の免疫がみんなありました。あの当時は日本でもそういう時代だったんですね。


長春にいる日本人

ところで中国には日本で教育関係あるいは、企業戦士だった人で定年後、日本語を教えるために中国に来ている人が多いです。御夫婦で来ている方も、(海外技術協力という呼称で)。また海外青年協力隊これはよく知られていますが。こちらに来てからそういう人がとても多いことを知りました。長春には100人近くの日本人がすんでいます。半分は日本人留学生、半分はそういう教育関係の人たちです。

また長春には世界各国から語学留学に来る人が多いです。

この大学の外国人学生寮には韓国、日本、オーストラリア、ヨーロッパ、アメリカなど、さまざまな国籍の人が住んでいます。これは私も知らなかったのですが、長春には方言がなく、中国語の勉強には最適なのだそうです。日本で中国語を勉強していた人が念願かなって長春へ来、町の人々が話すのを聞いて感激したといいます。「おお、みんなアナウンサーと同じ発音だ。」と。

 

私たちと同じ外国人専家招待所に住んでいる日本語科の先生(高校の国語の先生でしたが定年退職後先ほどの海外技術協力に申請して来られた方です)の奥さんと一緒に水墨画を習うことにしました。絵はもともと好きなので、機会があれば習いたいと思っていました。

教室は先生のお宅なので中国の人の家をはじめて訪問することになったわけです。

 当時中国の住宅事情はひどいとは聞いていましたが、本当に驚きました。かなり名のある先生で、大学でも教えていらっしゃるのですが、人が通りそうもないような汚い通りを入って、廃墟にしか見えないアパートの、粗大ゴミと荷物の間を通って5階まで上がるのです。ベニヤ板に亜鉛の板を張ってあるだけの倉庫のようなドアの中が先生のお宅でした。床にはじゅうたんもなくコンクリートむき出しで、家具らしいものは粗悪な板で作った棚とテーブル。広さは2DK、家族3人で住んでおられます。

私たちのメンバーの中には、吉林大学の教授のお宅に招かれた人、中国の辞書の編纂で有名な名誉教授のお宅に招かれた人もいますが、家の中は水墨画の先生ほどひどくはありませんが、お宅の広さと、そこへ至る道は似たり寄ったりだそうです。中国では大学の先生の給料は350元〜500元(日本円で、95年当時で4200円〜6000円、今でも1000元、1万2000円)ぐらいだそうですから、知識人の生活はまだ非常に質素なものです。その反対に、商売をしている人、例えば、石炭の仲買人のお宅へ招かれた人の話では、そのアパートの外までは同じような状態だったそうですが、中へ入るとこれこそマンションと言うにふさわしいというような広さと内装で、豪華なシャンデリア、日本製のオーディオセット、フランス製の家具に、ドイツ製のキッチン、カラオケルームまであり、その格差は想像以上です。(当時でさえそうだったんですから、今の経済格差は予想以上でしょうね。) 大学の先生の中で、よく言われることに、「お前は頭がいいのに、なぜ先生なんかやっているんだ。」というのがあるそうですが、このころから大学のほうの意識も変わってきて、この大学もホテル、レストラン、カラオケルームなどを次々に建て、ビジネスに励んでいるそうです。長春は大学の町と言われるほど大学が多く、吉林大学、東北師範大学、吉林工業大学、白求院医科大学、長春地質学院、長春大学など、20近くの大学があるそうです。これらの大学が皆ビジネスに励めば、きっと面白い町になるでしょう。 この大学は秋に重点大学に指定されるかどうかの審査があり、先生達は皆燃えています。重点大学に指定されれば国家からの補助が格段に違い、対外的な地位が非常に上がります。

この大学は長春ではトップクラスなので可能性が高いそうです。(1998年に重点大学に指定されました。)

 


満州

 ちなみに長春は昔、満州と呼ばれていたところで町中のあちこちに旧日本軍の残した建物があります。関東軍司令部、最高裁判所、病院、広い道路、街路樹など、当時の大日本帝国の威勢が大変なものだったということがよく分かります。

これを中国人の先生の案内で見て回るのはあまり気持ちのいいものではありません。

 偽故宮(これは満洲最後の皇帝溥儀の宮殿で、映画ラストエンペラーで出てきたものです)には当時の日本軍の残虐行為を写した写真がたくさん展示してあるそうです。

 というようになんだかんだと面白い経験をしながら一ヵ月が立ちました。今日は3月31日。話は変わりますが、3日前ひどい風邪を引いて、これは治るまで大変だと思っていましたが、師範大学の病院へ行ったところ、6種類の薬をもらい、たちどころに直りました。そのうち漢方薬が2種類で、驚くほどの効き目です。飲むと汗をかくほど暖かくなり、あんなにいたかった喉と気管支が一晩で嘘のようです。初めての薬だったということもあるでしょうが、ほんとに驚きです。漢方薬の威力をはじめて知りました。


料理

ところで料理のことのついてはあまり書きませんでしたね。宿舎の料理はおいしくない。ステンレスの皿に5つのくぼみがついていて、野菜料理が3種、肉料理が1種と、ご飯、味のないスープ。昼夜同じようなもので、朝はお粥と漬け物3種、パンとミルク。来たばかりのころはこんなものかと思って我慢して食べていましたが2週間ほどすると誰も食べに行かなくなりました。でも火曜と金曜の昼食は食堂のおばさんが作る、最高においしい肉まんと餃子。ほかの日はみんな食事を注文しないのにこの日は全員が食堂に顔をそろえます。とてもおいしい。土日はみんなであちこちのレストランへ繰り出します。楽しみは食べることだけという感じですからとても盛り上がります。この1か月で8軒を制覇しました。前からいる人に連れていってもらったり、送迎バスの運転手さんに教えてもらったりして、中国料理を満喫。本当に安くておいしい。吉林省は北朝鮮に接しているので、昔から朝鮮族が多く生活していますから朝鮮族のレストランが多いです。朝鮮族といってもかなり中国化しているので、韓国の料理とはかなり違うメニューですが、スペアリブの煮込みなんかとてもおいしいです。また犬の肉を専門で食べさせます。ボシンタンといって、スープになって出てきます。体が温まり、滋養があるそうです。犬の肉は残念ながら食べませんでしたが、食用の犬は見ました。体全体がほっそり長い犬で、食用ですから人に慣れたりしません。牛や豚でもおなじですね。檻に入れられて売られていました。でもなんだか正視出来ませんでしたね。かわいそうで。たまに朝早くベッドの中で、犬の「キャィーン」という声で目が覚めます。学校へ行く途中で、その店のそばを通ると、裏庭に犬が木につるされているんです。あれにはどうしても慣れませんでしたね。

回族のレストランもあります。ウイグル自治区からこの大学に毎年多くの博士班の学生が来るので、それと一緒にコックがついてきて、そのままここで回族のレストランを開いているケースが多いそうです。長春には何軒かあります。故郷を遠く離れたウイグル族の人たちにとって、これらのレストランは安らぎになるんですね。回族はほとんどが回教徒ですから、豚肉は出しません。日本では食べられないようなおいしい料理がたくさんあります。また次回紹介しましょう。